「涙の数だけ大きくなれる」 木下晴弘著(フォレスト出版) から
(流通、サービス関係、人事、教育関係の方は、
もうご存じのお話かもしれませんが)
その女性は何をしても続かない人でした。
田舎から東京の大学に来て、
部活やサークルに入るのは良いのですが、
すぐイヤになって次々と所属を変えていくような人だったのです。
そんな彼女にもやがて就職の時期が訪れました。
最初彼女はメーカー系の企業に就職します。
ところが仕事が続きません。
勤め始めて3カ月もしないうち上司と衝突し、
あっという間にやめてしまいました。
次に選んだ就職先である物流会社も、
「自分が予想していた仕事とは違う」という理由で半年ほどでやめてしまい、
また次に入った医療関係の事務も、
「自分には合わない」と言ってやめてしまうのでした。
そんなことを繰り返すうちに彼女の履歴書には、
入社と退社の経歴がズラッと並ぶようになっていったのです。
するとそういう内容の履歴書ですから、
正社員に雇ってくれる会社がだんだんなくなってきます。
だからといって生活のためには働かないわけにはいきません。
故郷の両親は早く帰って来いと言ってくれます。
しかし負け犬のようでそのままでは帰りたくありません。
結局彼女はしかたなく派遣会社に登録することにしました。
ところが派遣の仕事もなかなか勤まりません。
すぐに派遣先の社員とトラブルを起こし、
イヤなことがあればその仕事をやめてしまうのです。
またもや履歴書には派遣先のリストが長々と追加されていきました。
ある日のことです。
新しい仕事先の紹介が届きました。
スーパーでレジを打つ仕事です。
当時のレジは値段をいちいちキーボードに打ち込まなくてはならず、
多少はタイピングの訓練を必要とする仕事でした。
ところが勤めて1週間もするうち、
彼女は単調なレジ打ちに飽きがきてしまいました。
ある程度仕事に慣れてきて、
「私はこんな単純な作業のためにいるのではない」と考えだしたのです。
さすがにそのころには、
今までさんざん転々としておきながら、
まだ我慢の続かない自分に彼女自身イヤになりかけているところでした。
もっとがんばるかそれとももう田舎に帰るのか。
彼女は辞表を書いてみたものの、
やめる決心をつけかねていました。
そんな彼女のもとへ郷里からの電話です。
「もう帰っておいで」
受話器の向こうからお母さんの優しい声が聞こえてきました。
彼女はそのひとことで迷いが吹っ切れ、
辞表を出したらその足でアパートを引き払い故郷に戻るつもりで、
身のまわりの片づけを始めました。
すると机の引出しの奥から1冊のノートが出てきました。
田舎に居るころに書きつづっていた大切な日記帳でした。
パラパラとめくっていくうちに彼女は、
「私はピアニストになりたい」と書かれているページを見つけたのです。
彼女の忘れかけていた高校時代の夢です。
「そうだ、あのころ私はピアニストになりたくて、
練習をがんばっていたんだ」
「あんなに希望に燃えていた自分が今はどうだろう。
履歴書にはやめてきた会社がいくつも並ぶだけ。
自分が悪いのはわかっているけどなんて情けないんだろう。
そして私はまた今の仕事からも逃げようとしている…」
そして彼女は日記を閉じ、
故郷のお母さんにこう電話したのです。
「私もう少し東京でがんばってみる」
翌日スーパーに出勤した彼女にある考えが浮かびます。
「私は昔ピアノの練習中に何度も何度も間違えたけど、
繰り返し弾いているうちにどのキーがどこにあるのかを指が覚えていった。
そうなると鍵盤を見ずに楽譜を見るだけで弾けるようになった。
そうだ、私流にレジ打ちをもっと練習してみよう」
彼女はまずレジのボタンの配置を頭に叩き込み、
指で覚える練習を何度もしました。
すると数日のうちにかなりのスピードでレジが打てるようになったのです。
そうなるとなぜか不思議なことに、
これまで見もしなかったところに目が行くようになってきました。
まず目に映ったのはお客さんの様子です。
「ああ、あのお客さん昨日も来ていたな」
「ちょうどこの時間になったら子ども連れで来るんだ」
いろいろなことが見えるようになり、
それは彼女のひそかな楽しみにもなりました。
そうしていろいろなお客さんを見ているうちに、
今度はお客さんの習慣やクセにも気づき始め、
「この人は安売りのものを中心に買う」
「この人はいつも店が閉まる間際に来る」
「この人は高いものしか買わない」
そういったことまでわかるのです。
そんなある日、
いつも期限切れ間近の安いものばかり買うおばあさんが、
5,000円もする尾頭付きの立派な鯛をカゴに入れてレジへ持ってきたのです。
彼女はびっくりして思わずおばあさんに尋ねました。
「今日は何か良いことあったんですか?」
するとおばあさんは
「孫がね、水泳の賞を取ったんだよ。
今日はそのお祝いなんだ。
いいだろう、この鯛」
「いいですね。
おめでとうございます」
なにげなく出たひとことでした。
お客さんとコミュニケーションをとることが楽しいと思ったのは、
これがきっかけでした。
いつしか彼女はレジに来るお客さんの顔をすっかり覚えてしまい、
名前まで一致するようになりました。
「○○さん、今日はチョコレートですか。
でも今日はあちらにも別のお買得なチョコレートが出てますよ」
「今日はマグロよりカツオの方がいいですよ」
などと言ってあげるようになったのです。
レジに並んでいたお客さんも応えます。
「いいこと教えてくれたわ。
今から替えてくるわね」
そんなある日のことでした。
「最近すごく忙しい」
そう思いながら、
彼女はいつものようにお客さんとの会話を楽しみつつレジを打っていました。
すると店内放送が流れました。
「本日は混み合いまして大変申し訳ございません。
どうぞ空いているレジにお回りください」
ところが、わずか間をおいてまた放送が入ります。
「本日は混み合いまして大変申し訳ございません。
重ねて申し上げます。
どうぞ空いているレジにお回りください」
そして3回目、同じ放送が聞こえた時、
初めて彼女はまわりを見渡して驚きました。
どうしたことか5つのレジが全部開いているのに、
お客さんは自分のレジにばかり並んでいたのです。
店長があわてて駆け寄ってきます。
「どうぞ空いているあちらのレジにお回りください」
そう言ってカゴに手をかけたその時です。
お客さんは店長の手を振りほどいてこう言いました。
「放っておいてちょうだい。
私はここに買物だけで来てるんじゃない。
あの人としゃべりに来てるんだ。
だからこのレジじゃないとイヤなんだ」
それを聞いてまた別のお客さんが言いました。
「そうそう、私たちはこの人と話をするのが楽しみで来てるんだ。
今日の特売ならほかのスーパーでもやっているよ。
だけど私はこのお姉さんと話をするためにここへ来てるんだ。
だからこのレジに並ばせておくれ」
彼女はワッと泣き崩れ、
それからしばらくの間レジを打つことができませんでした。
仕事というのはこれほど素晴らしいものなのだと、
そのとき初めて気がついたのです。
ほどなくして彼女はレジ係のチーフになり、
仕事の素晴らしさを伝える新人教育にも携わるようになりました。
このとき、もうそこには今までの彼女はいませんでした。
すでに昔の自分ではなくなっていたのです。
(お断りしておきますが、
このお話がヘタなコラムというわけではございませんので。
念のため)